▼父が撮った写真に、こんな写真がありました。
多分、季節は春。場所は御前崎かどこか、静岡付近の海岸。
まだ、小学生のガキンチョだった自分が、波打ち際ではしゃいでいるのを、祖父と祖母が見つめている、そんな写真。
▼10月4日午後4時丁度。
祖母が永眠しました。89歳だったそうです。
歳なんて把握してませんでした。米寿のお祝い、したこと知りませんでした。
養護施設で誕生日に撮ってもらった写真。
細い目をさらに細くして微笑んでいるおばあちゃん。
おじいちゃんのところへいってしまいました。
▼9月は29日、容態が良くない、という連絡が母からありました。
ちょっと数値が良くないから、ということで9月の頭、養護施設から病院に移って治療を受けていたのですが、この日、両親が先生に呼ばれて、「あと2,3日といったところです」と告知を受けたらしく。
あまりに突然で、数日前の母との電話では、「大丈夫だよ」って聞いていたのに。
何度か、回復する見込みはないのか、と問いただすも、答えは同じで。「覚悟しておいて」と。
とにもかくにも、あと2,3日だなんて。急に休むわけにも行かないから、次の休み、となると10/2。
「2,3日」のリミットギリギリじゃないか・・・。
その日の夜はもう寝付けず・・・電気を消して暗くすると、まぶたに浮かぶは祖母との思い出・・・ただ嗚咽する自分がいました。
▼翌日、上司には話をつけて、その翌日の10/1は定時ですぐ上がって実家に直行しました。
病院に着いたのは22時過ぎ。祖母は起きてました。
でも時間の感覚とかはわからないようで、電気でうっすら明るい部屋の様子に「もう朝になっただけ・・・?(方言で、なったのか?の意)」と、看病していた母に尋ねたりしていました。
なんと声をかけていいのか思案している僕に代わって、母が、僕が来たことを告げる。
祖母は「おう、おう、」と苦しい息遣いの中でうなづいて返事をしてくれました。
▼数年前、祖母が養護施設に入るきっかけともなったのですが、やはり病で入院したことがありまして。
そのときは、一時脳に血液が行き届かず、(一時的な)記憶障害が起きてしまい、知らせを聞いて駆けつけた僕の顔を見ても、「誰だい?」とまるでわからない、ということがありました。
まぁ、長く実家を離れていたので仕方がないところもありますが、正直そのときはショックでした。
でも今回は、わかってくれたようです。そのことが、実はとても嬉しくほっとしたことでもありました。
▼すると、ベッドの脇のバーを掴もうとし始め、「どうしただい?(どうしたの?の意)」と尋ねると「起こしてくりょう、起こしてくりょう!(起こしてくれ、の意)」とわめきます。
母は、「起きると後が苦しいからやめとけし(やめときましょう)」と制しますが、聞く耳を持たないといった感じで。
うまくバーを掴めず宙を彷徨うその手を握ると、ぎゅっと力を入れて、「起こしてくりょう」と。
結局半分起こして。でもやはり苦しいようで、すぐ戻しました。
こんな様子でも、さっきよりはまだ随分落ち着いているらしい。
明日また来るよ、と告げてこの日は実家に帰ることにしました。
▼翌日はまず、お昼前に一度顔を出してみました。
祖母は鍋掴みみたいな手袋をさせられてました。聞くと、酸素マスクとか何から、外してしまうのだそうで。
可哀想だけど、苦しくなるよりは、と言うことでつけていたようです。まぁ、そのおかげか、だいぶ数値や呼吸は落ち着いているようです。
叔母が来たこともあり、今回は早々に引き上げて、実家に戻りました。
そこで待っていたのは甥っ子の子守。まだ1歳になったばかりの男の子、それも足が早いほうなのでとにかく元気。これはエネルギーを使う・・・と1時間かそこらでもうギブアップ。
子育てしてる親御さんの凄さを改めて思い知った。
▼今後どうするかを父と相談したところ、とりあえずお前は仕事に戻りなさい、そのときが来たらまた来なさい、と言うことになり・・・夕方にもう一度病院に寄って。
祖母は落ち着いている様子でした。
本当はずっと最後まで見届けたいと思いつつも、そうも行かず帰らなければならない、そういうときなんて声をかけて去ればいいんでしょうね。
電車の時間が迫っていて、うとうとしてる祖母になんか慌てて声をかけて出てきたような気がしますが、正直、なんて言って出てきたのやら。
生きている祖母を見たのはそれが最後となったのですが、なんだかよく覚えてません・・・。
▼実家から戻ってきて二日目の、職場の休憩室でその報を聞きました。
とにかくその日は仕事を最後までして、家に戻ってから今後のことを話し合おうと。
次の日は休みでしたが、葬儀の日程がまだ決まってなかったので、とりあえず二日ほど休むかもしれないと上司に相談したところ、快く承諾してくれました。非常にありがたかった。
家に戻って実家に電話。まず母に詳細を聞きました。
最後は眠るように逝ったそうです。
こんなことを言うのもなんですが、それが何より嬉しかった。ホッとした。
▼実家の座敷に、祖母は寝て居ました。
自分では、その白い布を取る勇気がなく、ただ見つめていると、父がそれを取ってくれました。
そこには、本当にただ眠ってるだけのような、穏やかな祖母の顔がありました。
耳を澄ませば寝息が聞こえてくるんじゃないか、とか。
でも、やっぱりそこにあるのは亡骸でしかなくて。
こみ上げてくるものを必死で我慢してました。
▼今回の葬儀は、全て地元・北巨摩の風習に則って行うみたいで。
実際のところは、地元にできたフェネラルホールにお任せな感じでしたが。
それによると、北巨摩にはお通夜の習慣はないそうで。この日行うのは「入棺(こちらでは「にっかん」と読むそうです)」のみ。
親族で死者に旅立ちの支度をさせてあげるもので、(今回は実際に着せはしなかったのですが)おなじみの三角頭巾や六文銭、足袋などを乗せていきました。
そして、身近なものを一緒に入れてあげるのですが、年季の入った祖母の経典を観たときに我慢が出来なくなってました。
祖母は元気な頃は、その経典を片手に毎日お経を上げていたのでした。その背中と声を毎日、見て聞いてました。
#今でもそれを思い出すと目が潤んできます・・・。
この入棺の儀では、棺に蓋をのせて(釘は打たず)終了です。
▼翌日はハードスケジュール。
早朝から出棺の儀。
蓋が一度外され、花でいっぱいにしてあげてから、もう一度蓋をして釘を打ち付けます。
そして縁側から運び出し、霊柩車に載せて火葬場へ・・・。
昨日は雨だったのですが、この日は良い天気でした。
▼火葬場では、何か淡々と事が進むような感じでした。
ただ眺めている中、進められていくような。
火葬が終わるまで一時間か、二時間くらいかかったでしょうか。
その祖母と対面した時は何かまた、不思議な感じでした。
ああ、こんな風になってしまうんだ。
と。さばさばとした気持ち。
面影が見出せないほどの状態なのが幸いしたのでしょうね。
面影が残っていたら、多分平静ではいられなかったと思う。
手順に則って骨壷に遺骨を納め、葬儀場にむかいました。
▼ここでこんな話もなんですが、この日は朝から晩までビール呑んでた気がします。
火葬場での待ち時間、告別式前の食事時間、初七日法要の席、無常講の食事。
気分的にそんな気分では全然ないんですが、逆を言うと、酒で紛らわせられるなら、という気持ちもあったのかも。
▼告別式は実は眠さとの戦いでした(ぉぃ
正においおい、という感じでしょうが、あんまり寝てないのと朝から結構な量のアルコール入ってるのと空調効いてなくて暑いのとで、意識を保ってるのがやっと。
でもそれは自分に焼香の番が回ってくるまでで。それからは覚醒していました。
そんな自分に止めを刺したのは、告別式の最後に、式進行役の方が朗読した、思い出の話。
いろいろな思い出話をまとめたものを読んでくれたのですが、僕ら兄弟のお弁当を毎日欠かさず作ってくれました、という件で決壊。
そう、僕ら兄弟は、特に僕なんかは半分は祖母に育てられたようなもんなんです。
弁当だけではなく、毎日の食事はほとんど祖母が作ってくれてました。「お袋の味」はウチは「おばあちゃんの味」でした。
体調を崩すまでずっと祖母が食事を担当していたので、体調を崩して母が食事を作るようになったときは、それは苦労したようです。味云々より、レシピがなくて困ったみたい。
#ちなみに母は父と一緒に自営の店を切り盛りしてましたので。
決壊した涙腺はしばらく治りませんでした。
▼本来、初七日法要はその名の通り、死亡日を含めた七日目に行うのがしきたりですけど、最近は遠方から来られる方や日程などを考慮して、告別式の日にまとめて行うことが多いようですね。
そのためにハードスケジュールなんですが(==;
お坊さんに読経していただき、法要のあと、皆で食事をとります。
▼このあと、墓地に行って納骨を行いました。
調べてみると、通常、四十九日法要のときに行うのが一般的なようですが、地域によっては葬儀の日のうちに行うこともあるそうです。
今回は、「その地域」に該当するためか、単に日程を考えてのことなのかわかりませんが・・・。
お墓には既に祖父が入っています。祖父は土葬、祖母は火葬なので、厳密には同じ場所ではないですけど、一緒の場所にいることが出来るようになったね、と、また一つホッとした気分でした。
▼そして、家に戻って、無常講。
まずは、組合の人の指揮で、ここ特有の念仏を唱えます。
何回か繰り返し唱えるんですが、回数を間違えたりして、そこに笑いが起こったりして・・・不謹慎だなんて思うことはなく、ああ、日常なんだな、日常に戻してくれてるような気がするな、と思って一緒に笑ってました。
この無常講でひとまずこの日の日程は終了しました。
▼翌日は片付け。外していた座敷のふすまを元に戻したり色々。
落ち着いたところで改めてのお墓参り。
家に戻って形見分け。
形見分け、と言っても大半が衣服で。実際は、一緒に押入れから出てきたアルバムの鑑賞会と言った感じでしたが。
にしても祖母は紫が好きだったようです。ほとんど紫、茶色の服でもほのかに紫色が見えるような。そんな話をしたり。
▼アルバムには、戦時中のものもありました。祖父が軍服を着てたり。
戦時中に二人は結婚して、ウチの父を生んでるんですけど、意外と言うか、二人が一緒に映ってる写真があんまりないんですね。時代のせいなのかどうか知りませんが。
そうやって写真を眺めていると、祖父が実にいい姿勢で居たことに気付いて。体を悪くする前はどの写真を見ても背筋がピンとしてる。戦時中の人間だったからなのか、でも実際まじめな人でしたし。
って、姿勢については一緒に暮らしてたときは全然気付きませんでしたけど・・・まぁ、ガキンチョでしたけどね。自分が。
そんな中にある写真でした。冒頭のは。
僕はよく、父と祖父と祖母との4人で旅行に連れてってもらえることが多く。そんな思い出も色々蘇ってくるのでした。
▼そんなお葬式の最中でも甥っ子二人は元気そのもので。
でもこれが世代交代というのかなんていうのか、そういうものなんだろうなぁ、とか。そんな感じに親戚付き合いなんかもどんどん移行していくんだろうなぁ。
とか色々想いをはせることもありました。
▼この歳になって、色々なことに気付かせてくれました。
薄れ掛けた記憶を呼び覚ましてくれました。
他にも、色々、色々。言い尽くせない感謝の気持ちで一杯です。
こんな場で恐縮ですが、おばあちゃん、ありがとう。どうか安らかにお眠りください。おじいちゃんと幸せにね。
▼気が付けば、変な報告文になっちゃってますけど。
どうしても書いておきたかったので。読んでもらいたいこと、ではないので、スルーOKです。
#今頃遅い。
いつまでも悲しみに暮れているわけにはいきませんし、おばあちゃんに心配をかけさせるわけにもいきません。頑張っていこうと思います。
ってことで、次回からは通常営業再開〜の予定です。予定。
▼ちょいと参考にしたサイト。
http://www.aishoden.co.jp/kanamori/p001.html
http://sogi-iso.jp/
葬儀関係のわかりにくいとこが簡単にわかるようにまとめられてます。
こちら読んで、遺骨を拾い上げるときの作法とか、その理由を知ることができました。
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2005年10月12日(水) 17時23分のぼやき。
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