過去のボヤキ -Jan.2018-

寒中ですね。
2018NewYear01_MC.jpg

▼一年の最初の日記、なんでもっと早く今年こそはーってパーってやるつもりだったんですよ?ええ。
それがもう一月も終わりのこの時期になってしまいました。あまり楽しい話ではないので苦手な方はスルーをば。また来月お会いしましょう。


▼というわけで思い出話も含みつつ。思い出したことをつらつら書くので時系列とか文脈とか多分支離滅裂になると思います。
去る1月23日、父が永眠しました。
13年にも及ぶ糖尿病による週三回の透析生活、1年二か月の入院生活の末でした。最期は安らかに息を引き取ったと伝え聞いてます。
長いこと、盆も正月も実家に帰らず、仕事の閑散期に気が向いたらというレベルで下手すると年1すら帰ってない年があったかもしれません。
たまに実家に帰ると、父と母二人きりの家で、父は透析のあった日だととても疲れた様子で夕飯もそこそこにすぐに床に入っていました。
当たり前ですが、その、たまに実家に帰る、ということは時間の経過を嫌が応にも見せつけられるもので、会うたびに老いていく両親の姿を見るのは辛くもあり、しかし変わらぬ夫婦の姿を見られるのは楽しみでもあり。
しょっちゅう口喧嘩を…というか、父が何か言う、母が何か返す、父がそうじゃないなんでわからんかなとまた返し、母がだってアンタ、父がなーにを言ってるだ、母がはいはい、と折れる、そんなやり取り。
またか、と苦笑してしまうやりとり。お互い耳が遠くなったり活舌が悪くなったりで、些細なことでそんなやり取りをウチには披露していてくれました。

透析は週三回、土日は無いので、その土日に、何度か予定をつけて旅行に連れて行ってくれました。
とはいっても、そんな希少な幸せを良くも噛み締めもせず、覚えているのは熱海と鬼怒川への旅行くらい。
それでも、子供のころから何度も旅行に連れて行ってくれた父でした。
その中でもよく覚えているのは、二人で行った長崎。夜行寝台に乗ってハウステンボス号にも乗ったり、グラバー邸など長崎の坂道をタクシーですが楽しんだり。
京都も行ったかな。写真、捜せば出てくるはずだなぁ。
旅行先での父は、若い時分にはなんていうか我儘が過ぎてるように見えていました。
タクシーの運転手や旅館の人に無理を言ってるように思いましたが、思い返せばそこまでひどいものではなく、日本人特有なのかな、旅先で遠慮しがちで本来受けれるサービスすら遠慮してしまう事態を、率先して回避しようとしてくれているのではなかったか、そんな風に思えてくるのでした。
というのも、とにかく旅行のプランを考えるのが好きで、電車の時刻を時刻表で熱心に調べて書き上げたり、パンフレットとにらめっこしていろんな史跡名所を調べ、また時代劇や大河好きで歴史もよく調べていて、城址など訪ねた時はすらすら歴史を紐解いていた父でした。
息子たちだけでなく友人や仕事仲間ともしょっちゅう旅行を楽しんでおり、初七日法要でご友人から話を聞くとそういったことが確かに裏付けられたのでした。
この歳になって自分はぶらり旅が好きになったり、史跡に興味が出たり、大河や時代劇を嗜むようになり、今頃になって切実に、父ともう一度旅行がしたくなるという

本当にどうしようもなく我儘なことを考えてしまうのです。

治ったら、退院できたら、またどこか行こう、行けるんじゃないか、漠然とそう考えていた一年でした。車椅子でも、どこか行けないかなって。
結局かなわなかった。そういえば、いつか高級寝台に乗って旅行したいな、なんて提案したいなぁって。夢物語でもいいからと言ってみたかった。

透析の縛りがあるから、遠くには行けないな、関東近辺で、なんなら東京でも、また行くか、一昨年の中頃にもそんな話をしていたような気がします。まさかその年の末に倒れて入院するなんて考えも及ばず、生返事を返していた自分を殴りたい。
あまり詳しい病状を聞けなくて、自分もショックが強くてあまり把握できていなかったのですが、確かどうも平衡感覚が保てないような感じで一度転んだらしく、その日はそのまま休んだ?けど翌日にはかなり悪化しており、診断の結果、脳の中に血だまりができている、これの薬が透析をしてると効かなくなるので薬が早く効かないと透析のほうも危ない、そんな話だったと思います。
前にも、飲み物を寝ころびながら飲んだら気道に入って肺炎を起こして入院したことがあり、しかしそれは完治して退院してきたこともあったので今回もきっと何とか医療が勝ってくれると祈っていました。
すると、無事年を越し、意識も戻って、多少障害が残りつつも、会話も出来る状態までには回復していました。
おりしも、市の公共工事の関連で家の建て替えを余儀なくされていた時期で、父が建てた家の最後を入院していた父は見ることができなかった。でもそれは返ってよかったのかもしれません。
祖父から受け継いだ店も閉じることになり、糖尿病からくる視力低下は父から趣味のカメラも車の運転も奪っていたので、家のなくなる様を見るのはとてもつらかったと思います。
入院中、父は家に帰りてぇなぁ、って何度も言っていたそうです。建て替え自体はウチの兄が引き継ぎ、無事完成した家に何度か帰ることはできたとのこと。その時の心境は、どんなだったんだろうなぁ。
寝たきりになり日に日に意志表現に苦労するようになっていった時期だと思うので、聞いてもわからないし聞けることでもないし、ただ想像するしかないことですが。願わくば、それでも新しい家が息子の手によって完成したことを喜んでいてくれてたらいいなって祈るばかりです。

一昨年末の入院の報から、ここ数年の不帰を取り戻すように頻繁に帰るようになりました。
神頼みに神田明神で病気のお守りを戴いて持って行ったところ、それが効いたかどうかは神のみぞですが、先述の通り一度は峠を越して、この一年、入院しつつも、穏やかな日を過ごせたようです。
傍らにはいつも母がいました。本当に趣味だなんだの他う全てなげうったかのように、毎日病院に通っては父に寄り添い、食事の手助けなどしていたそうです。
長かった自慢の髪もいつしかバッサリ切ってました。長い髪を後ろで束ねる母の姿が最もイメージが強かったので、口にはしませんでしたがばっさり切ってしまったのはとても悲しく辛く思いました。
父の葬儀の時、申し訳程度に後ろで束ねたヘアスタイルにしたとき、ほんの少し嬉しかった。また伸ばしなよ、とさりげなく会話に挟みましたが、さて伝わったかどうか。
元々絵を趣味で描いていて、スポーツもソフトボールにバレーボールと精力的に活動していた母です。自分の時間がまた戻ってくるので、また趣味を見つけて人生を楽しんでくれたらと切に願います。
消しゴムハンコに興味を持ってるみたいだったな、また何か持って行ってあげようか…。

神田明神のお守りは今年も戴いて、すぐに持っていったのです。
というのも、年が明けて数日、兄より連絡があり。
余り状態がよくない、と。そしてこれは病気というよりは老衰に近いものだと。
その時会った父は、何度か返事をするものの、おそらく目はほとんど見えてなかったかと。聞こえた声にわずかに反応した程度かなと、希望的観測を除き冷静に考えるとそんな感じでした。
いつどうなるかわからない、そして本人の希望、家族の希望も合わせて延命措置は行わないという話を聞き、自分もそれならば、苦しんでほしくはないと思っていましたから了承し、帰ってきたのでした。
それから「今日は連絡がこなかった」と胸を撫で下ろす毎日。しかしいつかは来るのだという覚悟を持ちながらの日々。
お守りの効能もあったと思います。穏やかな日々が二週間続いてくれました。苦しみはなく、呼吸が次第に弱っていき、静かに息を引き取ったと聞いています。
お守りに込めた願いは、できるだけ苦しむことがないよう最後まで見守ってくださいと、今年は込めていました。
母は毎日仏壇に手を合わせていましたが、長いこと回復をお祈りしていましたがいつしか安らかに苦しまないことをお祈りしていたそうです。どちらの願いも叶ったのかなと。良いほうに考えようと思います。

実家で横たわる父の顔は本当に安らかに眠っているようでした。ひげもきれいに剃ってあって、むっくり起きて薄いブラウンのサングラスと故地井武男さんのように帽子をかぶって、張り切って旅行に行こうとするんじゃないかとか。
その顔も相まって、苦しまずに永眠されたことにとても救いを感じたのでした。

葬儀では父の友人からいろんな話を聴けて。先に書きましたが旅行のプランを考えるのが好きなのは、人を楽しませたいという優しさの一端なのだろうと。商売人でもありましたから、社交的で、今思うと本当に憧れの塊でありウチの根幹を形作った偉大な父だったのだと胸を張って言えます。
父のまねはできない。したくても不可能。でもその姿はいつまでも大事に思い描いて生きていきたいと思います。
昨年の秋ごろ、大事な人を連れて挨拶ができたことも本当に良かった。そのころは普通に会話ができましたので。
振舞を真似することはできなくても、気持ちだけは真似、というか受け継いで行ければと思います。父はとても母を大事にしていました。ウチも大事にしていこうと思います。

そういえば、遺影がですね、とても素敵だったんですよ。
聞けば、わざわざそれ用に撮ったのだと。それも、もともとは孫が七五三の写真を撮ると聞いてじゃあついて行くぞと母も連れだって写真館に行き、孫を撮り終えた後、遺影用に撮ってくれ、と。
そして母も座らせて一緒の写真を撮らせていました。母によると、自分は写るつもりはなかったからそんなに盛装もしていなかったのだけれど、というのだけれど、写真に写る二人をそのいきさつを聞いて見れば、何と粋なことをする男だろう、と悔しいくらいにカッコよく見えるのですね。
それは透析生活が始まったころのこと。こうなることを予期していたのかどうかわかりませんが、写真にもこだわりがあった父です。母のことを大事に思っていた父です。亡くなってから初めて見せられた、聞かされた写真とエピソードに、身内びいきも多分にあると思いますが、これ以上にない親父の母に対する愛を感じずにはいられなかった。
この写真だけ残しておけば、もしもの時に、さて遺影はどうするのかと母を困らせる要素を一つでも減らすという気配りもあったんだと思います。
誇らしげに、ドヤ顔とは言わせない、誇らしげな顔の遺影によって、男の生きざまを最後の最後まで見せつけてくれました。ほんと敵わねぇ…。

▼ああ、本当に思うまま書いたから同じようなことも何度か書いてしまったかも。
ここまで目を通していただいた皆様、お目汚し申し訳ございません。そしてありがとうございます。
お心遣いいただいた皆様も本当にありがとうございました。一つ一つに感謝し大事に生きていこうと思います。

今日の絵は年賀状用に、犬のネタが思いつかず、友人の発言をヒントにたまたま選んだ題材でしたが、見送ってきた今思うに、父は自分にとっていろんな意味でビッグボスだったな、などと思ってしまったので、トーンを落としたバージョンで掲載しました。
あれこれ、まだまだ掘り返せばいろんな思い出が出てきそうですが、ちょっと目から汗がさっきから何度か出てしまっているんで今日のところはこの辺りで。というか、次回は元のトーンで書けたらなと思います。
それではまた来月。


2018年1月28日(日)/23時54分のぼやき。


戻りまつ。